2015.01.23 Friday
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梨本宮家は北白川家とともに「悲劇の宮家」といわれるが、それは長女方子の国際政略結婚にまるわる悲劇といえよう。
1917年(大正6年)秋、守正王が陸軍中将に昇進したころ、宮内大臣から突然、方子と朝鮮王族の王子李垠との結婚話が持ち込まれた。皇族として初めての国際結婚であり、いうまでもなく日韓結合の政略結婚だった。
いうなれば幕末時の公武合体策でとられた皇女和宮と同じ立場であり、韓国内の反日感情を抑えるための人身御供だった
(略)
終戦後、李垠は陸軍中将で軍事参事官だった。夫妻は韓国が独立後、帰国を希望したが李承晩政権に拒否され、やっと帰国が許されたのは1963年(昭和38年)のことだった。そのとき李垠は病魔におかされていて、1970年に亡くなってしまった。方子夫人は夫の死後も韓国にとどまり、ソウルで身体障害者のための福祉活動に献身した。
李方子(り まさこ、イ・パンジャ、明治34年(1901年)11月4日 - 平成元年(1989年)4月30日)は、李氏朝鮮(大韓帝国)皇太子李垠の妃。
プロフィール
明治34年(1901年)11月4日、皇族梨本宮守正王と伊都子妃の第一王女として生まれる。皇太子裕仁親王(昭和天皇)のお妃候補として名前が取りざたされるが、学習院女子中等科在学中に李王家世子である李垠と婚約。女子学習院高等科卒業後の大正9年(1920年)4月、李垠と結婚。二人の結婚は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」を目的とする政略結婚であり、婚儀の際にも韓国の愛国者による暗殺未遂事件もあったが、二人の仲は睦まじかった。
方子妃は、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫君を支えた。大正10年(1921年)、第一王子晋が誕生する。大正11年(1922年)年4月、夫妻は、晋を連れて朝鮮を訪問するが、帰国直前、晋は急逝する。晋の死は急性消化不良と診断されるが、その一方で、日本軍部・朝鮮双方による毒殺説が流布している。昭和6年(1931年)、第二王子玖が誕生する(2005年死去)。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦により、王公族の身分を喪失し、一在日韓国人となった李垠は、韓国の初代大統領李承晩により帰国を妨げられ(帰国によって王政復古がなされ自分の地位が脅かされると考えたと言われる)、昭和35年(1960年)、脳梗塞に倒れる。李承晩退陣後の昭和38年(1963年)、朴正熙大統領の計らいで李垠・方子夫妻はようやく帰国を果たす。昭和45年(1970年)、李垠逝去。韓国に帰化した方子は、知的障害児、肢体不自由児の援護活動に取り組み、趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所設立し、自作の七宝焼で資金を集める傍ら、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。
また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、さまざまの事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。
平成元年(1989年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王・同妃百合子が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。 2006年11月、フジテレビ系列で「土曜プレミアム-奇跡の夫婦愛物語」として放映された。
長女の方子女王は李氏朝鮮最後の皇太子で後に李王家を継承した李垠(イ・ウン)と結婚し、戦後は大韓民国に渡り、福祉事業などに尽くした。その子息である李玖は日本に生まれ、アメリカに留学。アメリカ人女性と結婚後、1963年に韓国に帰国。韓国で会社を経営していたが、その後の業績不振により再度日本に渡った。2005年7月16日、心臓麻痺のため東京で死去。享年73。子女がなかったため、彼の死去により李王家直系の血統は途絶えた。